歴史

じゃんがら念仏踊り』は、明暦二年(一六五六年)七月の半ばにいわきの上平窪にあった利安寺で行われました。

小川江筋の開削者の沢村勘兵衛勝為(さわむらかんべえかつため)の一周忌で、農民が『じゃんがら念仏踊り』を踊ったのが始まりです。

元になったのは、江戸時代初期に茨城県の泡斉というお坊さんが寺院修理のために江戸へ行く途中、花笠をかぶり太鼓を肩にかけ、鉦を手にし、念仏をとなえ歩いていました。それが『泡斉念仏踊り』です。
この泡斉念仏に、いわきの民謡を取り入れ、荒々しいと評判の強かったものを独自に念仏踊りに再編して行ったものが、現在の『じゃんがら念仏踊り』です。


『じゃんがら念仏踊り』の輪には、老若男女も交じってみんなで歌いながら踊っていました。
太鼓
(三人)、鉦(十人前後)、ちょうちん(一人)、踊る人がいて、踊る人は子供、老人などでした。
この時代は仮装しながら踊っていました。

男粧や女粧、さらには武士の仮装をする人がいたり、褌のひもを結び付けて、子供たちの電車ごっこのように隊列を組んで『じゃんがら念仏踊り』を踊っていた人もいました。
これを現在の言葉でいえば、『じゃんがら念仏踊り』はさまざまなパフォーマンスが渦巻く、エネルギーのかたまりだったといえると思います。


また『じゃんがら念仏踊り』は、現在のようにお盆だけでなく、各地の神社仏閣の宵祭りや開帳などにも踊られていました。
しかし、仮装したりするような『じゃんがら念仏踊り』は年中行われていませんでした。
お盆の時、神社仏閣の宵祭りの時だけでした。


このようなエネルギッシュな『じゃんがら念仏踊り』を大きく変えてしまったのが、
明治六年(一八七四年)一月、じゃんがら禁止令です。
原因は、この時代の『じゃんがら念仏踊り』は女性も踊っており、浮かれた男女が夜遅くまで遊び歩き、いかがわしい行為をする人がいたからです。このような行動が多々あったため禁止になりました。

しかし、禁止された理由はそれだけではなく、『じゃんがら念仏踊り』そのものもいけなかったようです。
当時、新政府は、西洋文明、西洋文明の移入によって、これから国家を建設していこうとしていました。
そのような状況の中にあり、旧熊依然としたこのような好ましくないしきたりがあるのはいけないということでした。

明治二十八年(一八九六年)に、再び『じゃんがら念仏踊り』を踊り始めるようになりました。
しかし、その時の再生された『じゃんがら念仏踊り』には江戸時代に、華々しく行われていた時の本来のエネルギーは消え失せ、男女が組をなして町を踊り歩くということもなくなり、男性を中心としたものになってしまいました。

夏井 芳徳「ぢゃんがらの夏」より